昭和42年9月25日 朝の御理解      


 十分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれ、と。ままよとは、死んでもままよのことぞ、と。大変、まあ、厳しいことでございますですね。死んでもよかという気になれ、と。ままよというのは、そういう心。けれども、十分の徳というかね、おかげを受けようと思えば、そういう気持ちにならなければならないということは、どういうことか、と。
 氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられました。ままよという心。お任せするという心。それは、お任せするのですから、こちらに不安や心配があってはならない。あなたにお任せする。口ではお任せすると言いながら、お任せしきらない。つい、自分のいいようにしなければ、不安である。
 そして、それを、人事を尽くすといったようなことでも分かる。神様が信じられない。
 人からは笑われても、神様から笑われるような事であってはならない。これなんかも、やはり、いかにも神様を信じておりますと言うても、不安や心配があったんでは、それは、神様を信じとるとは言えない。
先日、私は、本当に神様から笑われたような気がしたんですけれどもね。
 あることを、あることて言うか、金銭のことでございましたけれど。本当に、神様は先回りをしておかげを下さる。神様にお任せしきっとれば、神様がちゃんとお勤めをして下さる。人にもいう、自分もそれを、まあ、確信しておるつもりである。ところが、最近のように出費がかさなって参りますと、やっぱ、その、自分で言うのもおかしいんですけれども、自分で払いをするんですね。
 そんなに、どんどん、出しよったらアンタ、いよいよ、どうでん、いっちょ払わんなんところに困るようなことはないか、と私がある時に話したんです。そしたら、そん時、ちょうど、三つぐらいの子供とお母さんと二人参って来ておりましたのが、私の顔を見ては、もう、一生懸命、親子でゲラゲラと笑うんですよ。
 ああ、後ろか何かついとるねち言うて。いいえ、と言うて、その、笑ってるのは他のことで笑ってたらしいんです、親子の者が。ところが、私はもう、本当に、何か水浴びせられたような気が致しました。神様が笑うてござる。私が、ちょっとそんなことを言うたことがです、心に感じた、別に不安という訳でもなかったと思うんですけれども、そげん、ごろごろ出しよったら、あんた、いよいよ出さなん時にはどげんなるの、というような、その表現がですね、神様からの目からご覧になったら、本当におかしいことであったろうと、こう思うです。そんなことがございますですね。
 人から笑われても、神様から笑われてはならん。ね。それには、なら、どういうような信心をさせて頂いたなら良いかということですね。けど、どうでも一つ、お任せしきった信心。なかなか、その、一番、楽な道であるけれども、一番、また難しいということも言えるのです。なかなか、任せておるようで、任せきってない。お任せしとるならば、そんな心配はいらんのだけれども、やっぱ心配である。ね。
 もちろん、それには先ず、神様の働きというものを、よく知らなければならん。神様のお働きというものを、本当に十分知っておかなければ、その、安心は出けんのでございますから。神様のお働きをだんだん分かって来るようになったら、どうでも、自分を中心の信心から、神様を中心の信心。言うなら、私ども、神様が私ども任せになって下さることだけを願う信心ではなくて、私どもが、どうぞ、神様のお心任せの生活が出ける信心にならせて下さいというような信心が出けて来なければ出来ん。ね。
 そこには、不安もなからなければ、心配もないのです。人から笑われても、神様から笑われてはならない。それは、場合によっては、人から笑われるようなこともございますけれども。ね。神様からは笑われてはならない。お互いの信心は、神様から笑われ通しに笑われておるような感じが致します。
 強がりを言う。これも私、今から思うと、本当に完全に神様から笑われたんだなと思ったのですけれど。まだ修行に、本当の修行に入ったわけじゃないけれども、ちょうど私、お酒を頂かないという修行をしよった。ところが、私は商売させてもらいよる時。ちょうど、花見時分であったから、お得意さんに招待されてから、花見に行った。この頃は、お酒があんまり手には入らん時分ですから、お酒やら、その焼酎やら、いわゆる、その、飲み物をいろいろ用意して持って行った、と。
 桜の花の下でお弁当を、まあ、お弁当だけを頂いても、その、まあ、と言われるもんですから、好きな口ではありますし、神様にお許しを頂いて、どうぞ、頂かせて下さいと言うて、酒を飲んだり、焼酎を飲んだりしたのが、もう、足腰がしびれて、立たんようになってしもうた、久しぶりに飲んどるもんですから。
 そして、そのお得意さんのお家まで帰ったのはです、何で帰ったか、どのようにして帰ったか覚えんぐらいに酔うてる。フッと目を覚ましたら、もう、終まで市内電車が11時ぐらいでしょうかね。もう、終電電車に、もう、後時間がわずかしかないという時に目が覚めた。
 もう、あんまりぐっすり、酔っ払って寝てあるけん、もう、起こしなさんなということだったらしいんです。今考えますとですね、福岡の地理があんまり詳しくない時ですけれども。今の平和台。平和台のすぐ東側にはですね、ぜんぜん、お堀があってから家がなかった。あると言うても、もう、あの、何て言うんですかね。あの、ゴミ箱に使う、あの、瓦があの時分にはありましたですね。木の瓦です。
 あの、そういう瓦で家を建てた。もう、低い家がね、ずうっと、何10軒て、まあ、住宅の家があっただけでございました。その、ちょっと裏辺りにある所でした。もちろんあの横ですから、外灯も点いておりません。まあ、言うなら、お堀ばたの寂しいところなんです。もう、11時ごろですから寝静まってしまってるです、福岡はもう、あの、今は、もう、あそこに行くとビルがいっぱい建ってますよね。そんな時分でした。私は、あの、愛宕下というところで、姪浜の手前におったもんですから、その、電車で、最終の電車に乗らんならんと思うて、急いで、その、お堀端を帰りよった。
 そしたらですね、もう、ほんなこの辺でですね、誰か、もう大きな声で、それもゲラゲラと笑うのですね。私はびっくりしましてから、ちょっと、誰が笑いよるじゃろうかと思うて、振り向いたら誰でもおらん、はあ、それから怖くだんなりましてですね、もう、どげんして電車通りまで走って出たか覚えないということがあったんですよ。それで、後から思わせて頂いた。
 あれこそが、神様が笑いなさったんだろうと、私は思います。それが、もう、ちいったばっかり修行させてもらう。もう、お酒は飲みませんとか何とか言うてから、もう、今日の正体はどうだったか。何という、その、醜態であったか、と神様が笑われたという気が致しました。
 もう、その笑い方が今でも、私は耳に残っとる感じですけどね、それこそ、あの、ゲラゲラと笑うという、そういう笑い方です。それも、頭上、何尺かこの辺のところでですね、だから、誰か後ろから来て笑ってると思ったんですよ。それで、こう振り向いたら誰も来てないのですからもう、その気持ちの悪さて言うたらですね、もう、ビックリ致しましたがです。
 まあ、そういうように、神様から直接笑われりゃね、まあ、びっくりするんですけれども、神様がそんなに、どういうご都合、ご神意か知らんけれど、神様が笑いなさるはずはないですからね、私どものことを。しかし、そういうようなこともある。けれども、その、神様はお笑いにならんでもですね、例えて言うならば、あの、人の口を通してとか。信心させて頂いておったら、子供の言うなら泣き声からでも、神がものを言うて下さるとか。流行歌の文句の中からでもという、この、神様がものを言うて聞かせると仰るから。
 心を神様に向けておけば、神の声としてピシャッと頂くことが出来るように、私がそういうような、最近は思うんですよ。ですから、私はその時にも、親子の者がゲラゲラと、それこそここで笑っておるんです、お広前のここで。私は下りてある方と話していたんです。なら、先生、顔に何かついとるち。したら、その、お母さんがあんまり笑うけん、気の毒になったらしいんですよ。いいえ、そちらの方じゃ、こちらのことで笑ってるんです、実際は。けれども、私としては、はあ、私が今言うたことをです、神様が笑いなさったなあと、まあ、思うてひやっとしたようなことでございましたがです。ね。
 私どものように、もう、本当に、もう、神様にすがらなければ、すがるところがないのですからね。神様におかげを頂かなければ、もう、実を言うたら、ここ一寸が動けんのですからね。ですから、もう、一切が神様任せ。本当に神様任せだからこそ、こうやっておかげを頂いておるようでございますけれども、どこの端にかそういうなことがある、と。そういう時に、笑われておる。
 お互いの場合、例えば、そういう自分中心の信心なんかしておる人の場合なんかは、もう、言うならば笑われ通しだろうと、こう、思うんですけれども。まあ、それはですね、神様が本当に分かっていないのですから、その、笑われとらんのかも知れません。
 けれども、神様は分かっておる、神様が有り難い、神様っちゃ間違いのないお方じゃと、例えば思うたり言うたりしておりながらですね、神様が、その、おかげ下さるじゃろうかと言うて、不安をしたり、不安があったり、慌てたりしておる時に、神様から笑われておる。
 人からは笑われても、神様からは笑われちゃならん。まあ、そういうようなことは、もう、それは、自分、信心させて頂いて、いろいろあろうと、こう思うですね。そこで、んなら、神様中心の信心とは、どういうような信心か、と。例えて申しますと、よく、その、テレビを見ております。子供も見ておりゃ、年寄りも見ておる。年寄りは、まあ、漫才かお芝居かを見たいと、こう言う。そすと、子供達は野球か何かを見たいと、こう言う。ね。
 どちらも譲ろうとしない。いやあ、もう、野球がいい、いや、その、お芝居がいいと、こういうこと。ね。そして、自分の思い勝手なことをするというようなことがございます。ね。自分のええ方を、なら、見ろうとする。そういう時に、まあ、例えて、なら、私どもで言うなら、年寄りと子供がそうしておる時には、私は真中におる。ね。おじいちゃんの言うようにしなさい。もう、子供たちのいいようにしなさい、と私は言わないです。黙って、成り行きを見とる、例えば、私が見ておるなら。
 そして、野球がよい、お芝居がよいというのが、野球の方が勝つこともありゃあ、お芝居の方が勝つこともある。野球も、こっちは、私なんか全然分かりませんから、ああ、もう、神様が見るなと言うて、言いござるとじゃなと思うて、お広前に出て来る。ね。
 年寄りの言うお芝居の方がええて言いよるのが勝った時には、はあ、今日はお芝居を見せて下さるんだなと思うて、お芝居を見る。神様中心の生き方っちゃ、そういう生き方だと思うんですよ。ね。私が分からんものを、神様がそこに、その、テレビが始まりましても、分からん。だから、お広前に出て来るとです、はあ、親先生はもう、お広前におられなかったから、お会いしたかったけれども、もう、このまま帰りよりますといったような人と、その、よく、出くわすことがあります。ね。
 そういう時に、はあ、おかげ。いわゆる、神様任せの生活ていうのは、有り難いなといつも思うのです。ね。神様中心の私は生き方ていうのは、そういう、言うなら見やすい生き方なんです。ただ、自分の我情を通そうとする。自分の思いを通そうとする。ね。それの方が、そのぐらいなら、テレビならいいですけれどもです、ね、これなら、なら、金銭の問題なんかの場合になると、そげなことすると、損すると、こう。そげなことすると、こちらが分が悪いと、こう思う。
 それを、自分で、その、いくらか、その、それを損しまいとする、馬鹿らしい思いをせんで済むようにと、こう、言うたり思うたりしておるような時こそがですね、神様から笑われておる時のような気が致します。ね。ほんなこて、自分で出来るごと、神様のおかげを頂かにゃ出けんのに、こげないらん心配をしておるというような時を気付くことがありましょうが。
 そういう時には、翻然として神様の心に添うた時であり、ね、神様任せにこちらがなった時なのである。ところが自分が、一人で心配する。自分が一人で骨折ってるような思い方の時にはです、もう、言うならば、神様に笑われておる時と思うて間違いないです。
 これはですね、どうでも、信心させて頂いて、おかげを頂くように、本当におかげを頂きたいならですね、自分中心の信心から、本当に神様を中心の信心になって参りませんとですね。そのことを、昨日、美登里会の方達の御祈念の中に、私、もう、これは、もう本当に厳しい意味合いにおいての神様任せの信心とは、こういうものだ、と。神様に中心にした信心とは、こういう信心を言うのだ、というような、一つの例をですね、とって私、お話したことでございますけれどもですね。
 もう、本当に神様中心とか、神様任せとか言いよるけれども、実際は、本当は任せきってないのです。ね。親先生、私が分からんところがあるなら、怒って下さい。んなら、怒ろうかのと、こう言うとってもです、怒る隙を与えないです、相手が。なぜかって言うと、どういうことかと言うとですね、もう、本当に親先生任せで行っとるならです、怒られる。けれども、親先生任せじゃないですから、怒るわけにいかんのです。自分任せで行きよるのですから、自分の思いで動きよる。そうでしょうかね。
 ねえ、まあ、その、一、二の例を私、申しました事でしたけれど。秋永先生んところ、この頃から三日間、いや、二日間、何じゃったですか。展示会がありました。その中に、二十日という菊栄会の日と、二十一日という月次祭という日が入っておる。二十日と二十一日なんです。もう、こういう時には、先生ならどうされるだろうかと思うただけで、すぐ分かるのですけれども、けっきょく、その程度だな、と私は思うのですよ。二十日が菊栄会で文男さん出て来れません。さあ、二十一日の月次祭には、仕方がないから、二十二日に伸ばさんならんといったようなことになって。
 いかにも、もう、ここでは第一人者ですね。それでもね、おかげは受ける。これは間違いないです。ね。けれども、それは言うなら、あげな時が笑われよる時でしょうね。昨日、お話を聞いてみますと、もう、昨日なんか、もう、あれだけのたくさんのことをするから、金銭とその反物のところが何か入れ違いがあって、間違いが起こるんだそうですけども。もう、(根きり?今きり?)、今度は金の方では一銭の間違いもないし、品物でも、(出入りがピシッとしたことであった。
 はあ、そんなら、今年は、今度(  )のつは、あんたが間違うとらじゃったばいなと言うて、私が秋永先生に申しましたがです。ね。そういう風にしか言われんです、おかげを受けておるです。なら、むつや呉服店の場合でもそうであった。16日という総会が真中にあった。15、16、17という、三日間、展示会があった。ね。私なら、おそらく、そういう日は選ばないでしょうね。例えば、それは、どういう都合があっても、神様の御用とか、神様のそういうな働きといったようなものを、私は無視するようなことは、先ずないでしょう。そのために、例え、よし、損しましても、そのために展示会は開けんようになりましても、いかにもそん時は損しとるごたるけれどもですね、そういう時に笑われんごたる信心しとかんとですね、神様がガバーッとおかげを下さろうとするような時に、おかげを受けられんです。
 なぜって、もう、神様任せじゃないですから。ね。人間の、いわば、一握りと言うたら、これだけですばい。たとえ、三日間の展示会じゃどれだけ売れ行きがあっても(    )、これだけのこと。ね。神様が下さるという時の神様の一握りというのは、もう、どれだけあるやら分からん、おかげが。
 まあ、あっとるのですけども、それで良う頂かん。と言うて、それを、んなら、本当に私任せでないけん、あらあら、おかしいじゃないの、それは、お月次祭が中に入っとるじゃないの。何々の神様の御用の日が入っとるじゃないのと言うて、教えてあげるわけにいかん。本人、高められていないのだから。だからね、まあ、言うなら、ここで最高の人達ですらがそれなんですから、いかに、神様任せということは、難しいかということが分かるです。ね。
 本当に、あの、神様任せの生き方というのはです、場合によっては、その、笑われたり、損したりするようなことがありますよ、人からは。ね、信心しとるモンばっかりは、馬鹿らしいと、こう言うて笑われるようなことがありますけれどもです、神様からは笑われてはならんという生き方であって、初めて十分の徳が受けられる。それには、んなら、ままよという心を出さなければ。ね。
 少し、儲かるなら儲かるといったようなことは、置かなければ行けない。それを、私は神様任せ、と。そういう生き方をです、ね、人から笑われても、神様に笑われんという生き方なんです。そういう生き方の上にですね、神様の下さるおかげは、また、これは限りがない。ね。
 なら、私がこうやって偉そうに言うておりますけども、なら、私自身も厳密に言いうとと、何日前の私が話いたしますように。ハッと神様から笑われて気がつくようなことがある。ね。言うなら、神様中心に、もう、絶対、それを信じておる私ですらが、そげなことがある。心掛けておかなければならん。いや、心掛けておくと言うよりも、いよいよ、神様が分からなければならん。
 神様はどのような場合でも、信じて疑わない私どもにならなければいけない。そして、その神様中心の本当の生き方が出けなければならない。そこに、神様が氏子中心、氏子任せになって下さるようなおかげが頂かれるんです。どうぞ。